夢も希望もあるのだが

タイトル通り、夢も希望もあるけど無味乾燥な日々を淡々と生きようとするブログです。

思ったより政治的でも現実的でもなかったのだが(「シビル・ウォー アメリカ最後の日」感想)

 「シビル・ウォー」を観た。アメリカに行ったことない身として、感想を書いてみようと思う。次の段落からはネタバレをたくさん含む。
 
 特に前情報を調べずに観た感想として、この話は別にアメリカでする必要は全くないなと思った。というか、現実の政治問題を持ち込まない形でアメリカ内戦を描こうとするとこんなにも無味感想になるのかと思った。西部連合はカリフォルニア・テキサス主体で、ブルーステイト (民主党支持州) とレッドステイト (共和党支持州) が内戦状態のアメリカで手を組むなんてことはありえそうにないし、大統領の表象もただの独裁者だった。それは冒頭のサミーの発言である「カダフィチャウシェスクムッソリーニも皆同じ」という発言に現れている (独裁者の中でもこの3人が選ばれたのはおそらく全員民衆の手で殺されているから) 。アメリカ自身の表象も、せいぜい冒頭の自爆テロ星条旗が掲げられたり、最終決戦の場がワシントンだったりするだけで、独立13州とかリンカーン像とか、ネタにできそうなものはことごとくスルーしていたし、実際に暴徒突入でアメリカ分断の象徴となった上院は画面に映るのみで、もっぱらリンカーン記念堂とホワイトハウスで話が展開していくのも、現実の状況と重ね合わせることを徹底して避けた作りになっていることを強調している。悪役が「ミズーリコロラド、フロリダ」をアメリカ的なものとして扱うセリフもあるが、これも何か特別な意味があるというよりは香港と対比しているだけのように思えるし、Show me stateというステレオタイプを映画内の状況に重ねた (重ねることで緊張感を演出したかった) だけのようにも思える。同じような映画はヨーロッパでも日本でも撮れるだろうし、日本の場合も例えばゴジラ映画なんかで国会が話題になっても皇居が話題になることはないよねとか、似たような話のような気がする。
 
 また、内戦の描写としても、現実にウクライナでの内戦というものを目の当たりにした後では、あまりにも「現実感」に欠ける描写であった。人々のスマートフォンSNSを通じて状況が刻一刻と変化していく様がある程度わかるというのが現代の先進国における内戦の前提にあるはずで、それはスターリンク等が既に実装されている以上アメリカで起こっても変わらないはずである。しかし、作中では電波はほぼ絶望的で、主人公一行も全く状況に取り残されるという有様だった。哲学者の東浩紀は「ウクライナと戦時下」で民間主体の空襲警戒情報が整備されている様子を描写しているが、似たような種類のマッピングは米内戦において自然発生してもおかしくないだろう (例えば、この街はどちらに占領されている、この地域で抗争が発生しているなど)。
 
 
 総じて、この映画はアメリカ内戦というあり得ない事態をポップに描いた近未来ものであって、それ以上でもそれ以下でもない。そこに政治的な意味を読み取ろうとするのは間違いだ。しかし、そうは言ってもそこに政治的意図を汲み取ろうとしてしまう (だから制作側もそうしたものを徹底的に排除しようとする) ところに、むしろ現代社会が抱える問題があるようにも思える。
 
 
 しかし、人物描写に着目するとまた違う側面が見えてくる。「母親」「市民」「平和」「父親」「兵士」「戦場」という6つのキーワードに基づいて本作を整理すると次のようになる。リーとジョエルはジェシーにとってそれぞれ「父親」と「母親」役割を持っている。「父親」であるリーは先輩戦場カメラマンとしてジェシーを導くし、自らの葛藤をジェシーに明かそうとはしない。逆に「母親」であるジョエルは最初の戦場に行く前のシーンのように、自らの弱さを示しつつジェシーに寄り添おうとするし、仲間が失われた際も慟哭して悲しむ。アルコールや薬物も手放すことができない。
 
 ジェシー自身は、はじめは拷問の様子に取り乱す普通の「市民」だったが、様々な経験を経てリーの市に際しても冷静にカメラを構えられる一人前の戦場カメラマン(=「兵士」)へと変貌し、「父親」であるリーを殺してしまう(彼女は、「戦場」でこそ生を実感できるようになったというセリフがある)。またこのジェシーの父殺しは大統領という「父親」を殺してしまった作中のアメリカとも重なる。逆にジェシーの「父親」であるリーは内線に無関心を貫き「市民」としての暮らしを営む「平和」な街での経験や、師匠であるサミーの死を経て、常に目の前の現実をシャッターへと収める「兵士」から、我が身を呈して子を庇う「市民」へとなったために「戦場」で死んでしまう(同じことは「兵士」としての能力を失ったサミーにもあてはまる)。師であるサミーの写真を保存できない(対象化できない)リーと、リーの死を克明に記録する(対象化してしまえる)ジェシーは対比的に描かれる。
 
 これらを整理すると、「母親」「市民」「平和」と「父親」「兵士」「戦場」は対比的に描かれていることがわかる。「父親」は「兵士」として「戦場」に居場所があるが、「母親」は正気でいることができない。逆に「市民」として生きることは「父親」には難しく、「市民」として「平和」な街で買い物を楽しむことはできない。「父親」を殺して「兵士」となったジェシーも西部連合も、「市民」として「平和」を謳歌することは難しいだろう。こうした描写には、作中の市民の虐殺や拷問のシーンから一歩踏み込んだ反戦メッセージとして機能しているのではないだろうか。
 
 ではどうすればいいのだろう。「兵士」となり得るにも関わらず「平和」を謳歌しているのは、世捨て人として農場へ引きこもっているリーとジェシーの父親と、おなじく世間から切り離されて「市民」として暮らす服屋の店員のような人びとだ。作中ではこうした人びとは理想化されるどころか否定的に描かれているが、「戦場」化していく社会で「市民」たるということは、このように世捨て人になるか、ジョエルのように薬物で心を麻痺させていくか、二つにひとつなのかも知れない。エンディングで流れる大統領の死体と兵士たちの笑顔の写真は、「フルメタル・ジャケット」のミッキーマウス行進を思い出させた。