夢も希望もあるのだが

タイトル通り、夢も希望もあるけど無味乾燥な日々を淡々と生きようとするブログです。

Podcastで言葉の変動を聴撃したのだが

 またしても期間が空いてしまった。これにいちいちコメントしていてはそうした内容ばかりになってしまう気がするので、これ以上言及するのは控える。

 

 さて、最近はPodcastといった音声コンテンツをとにかく視聴していた。底で驚かされたのが音声コンテンツの「質」が担保されていないことである。Podcastでは、謙譲語として動詞+「させていただく」という表現が目立った。「させていただく」は「する」+「いただく」なのだから、熟語を動詞化している場合はともかく(例:相談させていただく、検証させていただく)、通常の動詞に用いる(例:楽しまさせていただく、選ばさせていだだく)のは誤りだろう。また、このPodcast配信者は助詞の使い方も独特で、具体的にどうだったかは覚えていないものの、おそらくは文法的には誤りであるような使い方だった。素人による配信である以上そうした部分は誤りとして訂正されるでもなく、そのまま発信されている点は興味深い。

 

 とはいえ、何も間違った日本語を使いおってけしからんという話がしたいのではなく、ことばが変質していく過程を見るのは興味深い。ら抜き言葉も昭和初期ごろから現れ始め、現代では話し言葉としてすっかり定着しているのだから、「させていただく」という「さ足し言葉」も、元号が変わるころには定着しているのではないか。いや、自分はたかだか2,3のPodcastを聞いているだけだから、単純にその配信者が独特な言葉遣いをしている可能性は否定できないのだが。

 

 実際、「させていただく」という表現を用いることで、動作の受動的な要素が高められているようにも思う。「選ばせていただく」は単に「選ぶ」の謙譲語であるが、「選ばさせていただく」とするとよりallow me to do 感というか、「(他の主体から制限が課されている中で)自分が取りうるなかから行動した」ことをへりくだっているようにも聞こえる。とはいえ自分は日本語学や言語学は何も知らないので、これもそもそも自分の感覚でしかない。

 

 自分はこの表現を使おうとは思わないが、これから他の人が用いている場面に遭遇したとしても、いちいち目くじらを立てないようにしたい。10年もすれば自分が少数派になっている可能性もあるのだから。

 

ハラスメントの一歩手前なのだが

 自分はよく酒を飲む。飲まないと生きていけないアル中というわけではないが、けっこうしんどい二日酔いに苦しめられることもしばしばあるので、わりと普通よりもボーダーに近いのではないかと思う。

 

 人間、飲むと行動は単純化するもので、機械的にコップを口元に運ぶ動作を繰り返すようになることが問題なのではないか。例えば水にいつの間にかすりかわっていても多分気づかない。それはいいとして、タイトルに戻るが、他者がいる場面でそうした状況に陥ってしまうと、ハラスメントの可能性を常に抱えることになるということを問題提起したい。

 

 現代社会において、ハラスメントは社会的な死に直結する。何かを強引に迫るという昭和的なハラスメントにいかなくても、自分の言動で誰かが傷ついた場合、現代社会では過失であっても行為者に責任が帰属させられる。したがって、高度な言動の抑制が必要なわけであるが、アルコールはこの抑制を利かなくさせる。その結果もし立場が弱いとされる存在に対して不適切な言動を取ろうものなら、酒のせいでしたで済まされる問題ではないだろう。

 

 「飲み会だから」という言い訳が通る場合もあるが、それはある程度関係性がある場合に適応されることでもあるし、最近は親しいと思っていた間柄であっても、「実はあのとき私は傷ついていました」という訴えは十分以上の同情を集める。実際に傷ついていたならそれは問題とされるべきなことには同意するし、社会的にそれを問題とする方向に進んでいくより他ないだろう。

 

 自分は幸運なことにハラスメントをせずに(あるいは、していた場合も表面化せずに)ここまでくることができた。しかし、現状のような暮らしをしていれば、いつか必ずハラスメントの加害者として訴える未来が見える。自分とて成人ではないのだから、他者を傷つけるような言動が頭の端に浮かんで、いやこれを言うと良くないのは目に見えているなという理由で言葉にしないこともある。しかし、アルコールの助けを借りて一度それを「うっかり」口に出そうものなら、社会的死を迎えて火葬場一直線である。これはよくない。

 

 最良は飲酒を断つことだと思うが、やはり「飲みニケーション」が生きているところでは生きているのが現代なので、今まで飲むやつで通してきた以上断りにくいという事情もある。また、生活に支障をきたすという程ではないので、禁酒外来に駆け込むほどではないとも思っている(この認識が既に誤りなのかも知れないが)。

 

 と、頭によぎった問題についてつらつらと書いてみた。某芸能人の某報道を見てやる気を失っただけである。

情報の非対称性が埋められないのだが

 仕事に近い話なのでぼかすが、想像力って大事だよなぁとか、そういう話。

 

 時期的な例えを使えば、18:15忘年会の企画を任されたと思ってほしい。大抵の場合、過去例が存在するので、それに沿ってやっていけばいい。しかし、そもそもその過去例がどこにあるのかもわからない。仕方がないので色々人に聞いて回ったところ、例年居酒屋のAを使っていたが最近潰れてしまい、去年はBを使ったもののやや高いという話になったとか、手元に情報自体は集まる。じゃあそれをもとにCにしますねと思ったら、いや部長は海鮮がだめなのでCはだめだとか、そういう話が新たに出てくる。じゃあDにしますとようやく決まったと思ったら、今度は参加人数の把握とかどのくらいの傾斜にするのかとか、聞きたいことは山ほどあるのに、なんかDに決まったらしいよふーん位の感じで他の人は満足してしまい、結果本人が気合でなんとかするしかなくなる。

 

 明確な前任者や過去例がいたりあったりすれば、ひたすらそれに沿うだけで目的は達成される(『こんなんじゃだめじゃないか』というクレームが付いても、『過去例がこうなのですみません』という言い訳が立つ)。しかし、それがない場合、かつ自分より明らかに周囲の方が情報を有している場合に、その周囲から助力が得られないと途端に詰む。厳密に言えば詰む二歩くらい前なのだが、実際に詰んだ場合に「教えてくれなかったのはそっちでしょうが!」とキレたとしても、「いやマズイ判断をしたのはお前だ」という言葉で言い訳が許されない可能性が高い。特に、忘年会の企画みたいにかっちり業務ではないために、担当者とかがふわっと決まっていく場合は特にそうだ。

 

 この場合想像力がある人、いわゆる「気が利く人」がいると、だいぶん話は変わる。「だいたい一人〇〇円くらいになるような店で、会社から歩いていける範囲だったかも。あと、食べ物の好みがあるからサラダと枝豆以外は各自ってことになってたけど、意外と不評だったよ」とか、企画する側が欲しそうな状況を投げてくれると助かる(実際はそういう人に相談が集中する場合も多いが)。しかし実際は「Cにしますね!」「いやあそこは魚メインでしょぉ〜?」みたいな感じで後出しにで文句つけられることが多い。プライベートのコミュニケーションであればそれもありかもしれないが、忘年会は仕事外であるとはいいつつ仕事の延長線上にあるものだから、ある程度効率性とかを意識して情報を伝達してほしい。

 

 こんな話をうだうだとしてきたが、私に起こった出来事は別に忘年会の企画ではなかったのだが、単純に明らかに情報を向こうしか握っておらず、その人から入手するより他ないのに全然情報を渡してくれない(後出し・小出しにしてくる)のでイライラしたという話。

気づいたらブログ自体がごぶさたになっていたのだが

 タイトルの通りである。何を言ってもいいわけだし、別に誰に言い訳する必要があるわけでもないのだが、まあ備忘録代わりに書くことにする。

 

 先週の半ばくらいにストレスの高いイベントが有って、それを癒やすのにどうやら時間がかかっていたらしい。しかもストレス:大とストレス:中くらいのイベントが重なっており、折しも他のタスクに追われるようになったのもあって、生活にゆとりがないというか、時間自体はあるのだけれど、ストレスから逃げたい気持ちは机に向かわせようとするし、タスクから逃げたい気持ちは机から遠ざかろうとするし、これらの作用反作用がさらなるストレスを呼び込むという、まさに地獄のような絵図だった。週末なぜか酒量が増えたと思っていたが、なるほどこういう仕掛けだったということに書きながら気づいた。

 

 一週間経って、いくつか条件が改善したこと、タスク自体も何個かは片付けられたことでなんとかブログに戻ってくることができた。全てが終わった今となっては、先週はある種の「非常時」だったわけだが、渦中にあるときには全く気づいていなかった。アスリートは、朝起きたときの自分の体調を把握し、専門のトレーナーがそれに応じてトレーニングメニューを変えるという。自分にはそのようなトレーナーはいないので、なんとか自己洞察を高めるということは重要なのであろう。思えば、この夏の初めにも自己洞察が低かったことで大変な目にあったと弊ブログに記していた。今朝運動したときいつものような調子が出なかったことを考えると、やはり全体的に疲れているという認識を持ったほうが良いように思えてきた。また風呂やらなにやらを試すべきときが来ている。

 

 短いが今日はこのへんで。

納豆は最近ごぶさただったのだが

今週のお題「納豆」

 

 納豆は嫌いではない。しかし最近全然食べていないことをこのお題で思い出した。明日にでも買いに行こうと思う。

 

 自分はバカ舌というか、極端な味が好きな傾向にある。なので、普通に食べるときはからしなりわさびなりを多めに入れて、涙目になりながら掻き込んでいる。なので、正直納豆本来の味が好きなのかと言われるとよくわからない。醤油とご飯に合う味なのでそれらの接着剤を兼ねた健康にいい食べ物的な立ち位置である。

 

 「我が家のとっておき納豆レシピ」のようなものも存在しない。自分は気にならなかったが、家人には納豆嫌いが多く、納豆を食べていると人間でないものを見ているような眼差しを向けられる。昔、「母に習えばウマウマごはん」という本で、納豆は焼けば匂いが取れて苦手な人でも食べられるという話をきいていそいそと焼いていたところ、調理中の匂いが酷いために即刻調理を中止せよというお達しが出るくらいには我が家で納豆はタブーであった。そのような状況の中でレシピ開発なぞできようはずもない。一人暮らしをしていた間は素材を加工するという発想自体が宇宙の彼方に飛んでいってしまっていた。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

 言い訳を並べてしまったが、結局のところ何がいいたいかと言えば、自分は納豆そのものよりもなにか変わり種の味付けが好きなものの、自分で加工する気力も体力もない怠惰なやつというだけの話である。納豆コーナーでメーカーの企業努力の末生まれた味付き納豆(のたれ)は買うが、自分からレシピを探して究極の納豆料理vs至高の納豆料理バトルを自分一人で繰り広げたりはしない。そんな寂しいやつである。

 

 という記事を書いていたら猛烈に大戸屋のねばとろばくだん丼が食べたくなってきた。この料理に至っては納豆は主役というよりは主役の一人というポジションにややランクダウンしているが、主役を張れている間はまあ、好きな納豆料理として挙げることを許してほしい。1

話が長いやつは嫌われるものだが

 最近、毎日行進出ない代わりに、長文の投稿をすることが増えてきている。個人的には中身のあることをなんとか言おうとしている記事なのだが、アクセス数を見ると全然伸びていない)(もちろん、「伸び」を気にする段階ではまったくないと言われればそうなのだが)。これは内容云々よりも、単純に長いと読む気しないなという人が多いのではないかという仮説を得た。

 

 個人的には、100字とかで終わっている文章より、何であれそこそこの長さがある方が多少冗長でも楽しいように思うのだが、こういう発想自体が現代のコスパタイパの時代的には会わないのかもしれない。何かを発信するという観点から言えば、ひとつふたつの主題について簡潔ながら的を射たことを書くほうが少なくとも今風なのだろう。

 

 しかし、大体の場合において「記事を書く」ページを開くときに(お題で書く場合を除いて)明確に何を書くという目標があるわけでなし、文章を書いている間に論旨が迷子になりそうになるのも無理からぬ話だ。どこかに書いたかは忘れたが、一応「文章の練習」というのも目標に掲げている以上、質的にも量的にも人が読むのを途中で止めない文章を生成したい。これ自体は「バズる」という目標自体とも遠からぬところにあると思う。

 

 他方思っていることとして、これだけ音声・動画メディア全盛期の時代にあって、わざわざブログを書いたり読んだりしているユーザーというのは、ある程度長い文章とかを読みたい欲があるのではないかと思っている。ぶ厚めの本とか小説とかを読む元気はないものの、なんとなく文章に触れていたいと思って行き着く先がブログ、しかもアメーバなどではなくはてななのではないか。少なくとも自分の場合は完全にそれが理由である。

 

 以上から、普段の文章はやはり1000字前後のサクッと読める内容にしつつ、たまに語りたいと思ったことは今まで通り思考の赴くままに垂れ流すスタイルで行こうと思う。それは現状維持というのだが、読者もほとんど居ない弊ブログについて、マーケティングをあれこれ考えることそれ自体が無意味なようにも思えてきたためである。結局自分は何がいいたかったのか、よくわからないが、多分「書くことがないです」という話を長い文章にした結果だろう。

思ったより政治的でも現実的でもなかったのだが(「シビル・ウォー アメリカ最後の日」感想)

 「シビル・ウォー」を観た。アメリカに行ったことない身として、感想を書いてみようと思う。次の段落からはネタバレをたくさん含む。
 
 特に前情報を調べずに観た感想として、この話は別にアメリカでする必要は全くないなと思った。というか、現実の政治問題を持ち込まない形でアメリカ内戦を描こうとするとこんなにも無味感想になるのかと思った。西部連合はカリフォルニア・テキサス主体で、ブルーステイト (民主党支持州) とレッドステイト (共和党支持州) が内戦状態のアメリカで手を組むなんてことはありえそうにないし、大統領の表象もただの独裁者だった。それは冒頭のサミーの発言である「カダフィチャウシェスクムッソリーニも皆同じ」という発言に現れている (独裁者の中でもこの3人が選ばれたのはおそらく全員民衆の手で殺されているから) 。アメリカ自身の表象も、せいぜい冒頭の自爆テロ星条旗が掲げられたり、最終決戦の場がワシントンだったりするだけで、独立13州とかリンカーン像とか、ネタにできそうなものはことごとくスルーしていたし、実際に暴徒突入でアメリカ分断の象徴となった上院は画面に映るのみで、もっぱらリンカーン記念堂とホワイトハウスで話が展開していくのも、現実の状況と重ね合わせることを徹底して避けた作りになっていることを強調している。悪役が「ミズーリコロラド、フロリダ」をアメリカ的なものとして扱うセリフもあるが、これも何か特別な意味があるというよりは香港と対比しているだけのように思えるし、Show me stateというステレオタイプを映画内の状況に重ねた (重ねることで緊張感を演出したかった) だけのようにも思える。同じような映画はヨーロッパでも日本でも撮れるだろうし、日本の場合も例えばゴジラ映画なんかで国会が話題になっても皇居が話題になることはないよねとか、似たような話のような気がする。
 
 また、内戦の描写としても、現実にウクライナでの内戦というものを目の当たりにした後では、あまりにも「現実感」に欠ける描写であった。人々のスマートフォンSNSを通じて状況が刻一刻と変化していく様がある程度わかるというのが現代の先進国における内戦の前提にあるはずで、それはスターリンク等が既に実装されている以上アメリカで起こっても変わらないはずである。しかし、作中では電波はほぼ絶望的で、主人公一行も全く状況に取り残されるという有様だった。哲学者の東浩紀は「ウクライナと戦時下」で民間主体の空襲警戒情報が整備されている様子を描写しているが、似たような種類のマッピングは米内戦において自然発生してもおかしくないだろう (例えば、この街はどちらに占領されている、この地域で抗争が発生しているなど)。
 
 
 総じて、この映画はアメリカ内戦というあり得ない事態をポップに描いた近未来ものであって、それ以上でもそれ以下でもない。そこに政治的な意味を読み取ろうとするのは間違いだ。しかし、そうは言ってもそこに政治的意図を汲み取ろうとしてしまう (だから制作側もそうしたものを徹底的に排除しようとする) ところに、むしろ現代社会が抱える問題があるようにも思える。
 
 
 しかし、人物描写に着目するとまた違う側面が見えてくる。「母親」「市民」「平和」「父親」「兵士」「戦場」という6つのキーワードに基づいて本作を整理すると次のようになる。リーとジョエルはジェシーにとってそれぞれ「父親」と「母親」役割を持っている。「父親」であるリーは先輩戦場カメラマンとしてジェシーを導くし、自らの葛藤をジェシーに明かそうとはしない。逆に「母親」であるジョエルは最初の戦場に行く前のシーンのように、自らの弱さを示しつつジェシーに寄り添おうとするし、仲間が失われた際も慟哭して悲しむ。アルコールや薬物も手放すことができない。
 
 ジェシー自身は、はじめは拷問の様子に取り乱す普通の「市民」だったが、様々な経験を経てリーの市に際しても冷静にカメラを構えられる一人前の戦場カメラマン(=「兵士」)へと変貌し、「父親」であるリーを殺してしまう(彼女は、「戦場」でこそ生を実感できるようになったというセリフがある)。またこのジェシーの父殺しは大統領という「父親」を殺してしまった作中のアメリカとも重なる。逆にジェシーの「父親」であるリーは内線に無関心を貫き「市民」としての暮らしを営む「平和」な街での経験や、師匠であるサミーの死を経て、常に目の前の現実をシャッターへと収める「兵士」から、我が身を呈して子を庇う「市民」へとなったために「戦場」で死んでしまう(同じことは「兵士」としての能力を失ったサミーにもあてはまる)。師であるサミーの写真を保存できない(対象化できない)リーと、リーの死を克明に記録する(対象化してしまえる)ジェシーは対比的に描かれる。
 
 これらを整理すると、「母親」「市民」「平和」と「父親」「兵士」「戦場」は対比的に描かれていることがわかる。「父親」は「兵士」として「戦場」に居場所があるが、「母親」は正気でいることができない。逆に「市民」として生きることは「父親」には難しく、「市民」として「平和」な街で買い物を楽しむことはできない。「父親」を殺して「兵士」となったジェシーも西部連合も、「市民」として「平和」を謳歌することは難しいだろう。こうした描写には、作中の市民の虐殺や拷問のシーンから一歩踏み込んだ反戦メッセージとして機能しているのではないだろうか。
 
 ではどうすればいいのだろう。「兵士」となり得るにも関わらず「平和」を謳歌しているのは、世捨て人として農場へ引きこもっているリーとジェシーの父親と、おなじく世間から切り離されて「市民」として暮らす服屋の店員のような人びとだ。作中ではこうした人びとは理想化されるどころか否定的に描かれているが、「戦場」化していく社会で「市民」たるということは、このように世捨て人になるか、ジョエルのように薬物で心を麻痺させていくか、二つにひとつなのかも知れない。エンディングで流れる大統領の死体と兵士たちの笑顔の写真は、「フルメタル・ジャケット」のミッキーマウス行進を思い出させた。