夢も希望もあるのだが

タイトル通り、夢も希望もあるけど無味乾燥な日々を淡々と生きようとするブログです。

昔住んだ街に来ているのだが

 かつて自分が暮らしていた街に出張で来ている。主張先のベッドからでもブログを更新する自分を褒めて欲しい。が、大人たるもの自分の機嫌は自分で取らなければならないので自分で褒める。偉い。

 

 自分が学学時代暮らした大都会へ久々に来たのだが、目下学生時代の自分には全然縁のなかったエリアに滞在しているので全く感慨がない。知らない建物から出てきて知らないおばあちゃんと会話を繰り広げる知らないおじいちゃんとかを見ながら、この人の人生はどんなものなんだろうなと思いを馳せるくらいが関の山だ。

 

 明日以降は少し時間が取れるはずなので、自分が何年か暮らしたエリアにも足を運んでみたい。自分は結構こういう「感傷に浸る」系のアクティビティが好きなのだが、あまり共感されない気がする。人に話したことはあんまりない気もするので、共感されない気がする、が正しい表現だとも思われるが。

 

 当時の暮らしについては日記も何も残っていないので、ただ博物館の展示を眺めるが如く、当時ゆかりのものや場所から連想するしかない。物持ちがよくない自分としては、当時住んでいた場所へ赴くことがこうした追憶を行うためのほぼ唯一の方法なのだ。

 

 若かりし頃の自分にとって、非常に大きく感じたあれやこれやの悩みについては、今となってはなんとなくしか覚えていない。それは恋や人間関係など社会生活の悩みだったかもしれないし、将来についての悩みだったかもしれない。

 

 ところが片手では収まらない年月が経った今、当時自分の周りにいた人々の多くは(少なくとも今は)自分の人生から退場してしまったし、今まだ連絡を取っている人々の関係性も当時のそれとは全く異なる。また将来についても、当時の自分が思っていた遥か以上に大海原であって、限りなく広がっているものの目の前の波にさらわれそうになる日や局面が度々やってくる。若造が何を生意気に知った口を聞いているんだという話であることは十二分も承知だ。

 

 しかし、生きていくにはそれなりの希望ある物語性と誰かからの励ましが必要なのであって、自分の場合は当時暮らしていた場所を訪れて、若者よこれから大変なこともあるがなんとか生きていくんじゃぞと過去の自分を励ますことで、逆説的に未来の自分から同じく励まされたがっているのかもしれない。

 

 ということで、自分ゆかりの土地を巡る旅というのは、壮大な(?)自分の機嫌を自分で取る計画の一端なのだ。読者諸兄にも機会があればぜひ試してみてもらいたい。