旅行が終わった。もうぐでたまである。せっかくだからと人と会う予定を詰め込みすぎた結果、体は重くなって財布は軽くなった。
そもそも彼ら彼女らのほとんどとは日常的に連絡をとっておらず、こうして訪ねて行った時にひょいと顔を合わせる程度が関の山である。彼らの新しい状況を見聞きするにつけ、その悲喜交々に共感し一喜一憂はすれども、同時に彼女らの人生において自分が主要な登場人物となることも、その逆もまたないのだろうなと思うと少し寂しいような、ホッとしたような気持ちになる。
彼らから大なり小なり影響を受けて今の自分があるのだろうし、その逆もまた然りである。そういう意味で、今も交流が続いていることを喜ぶべきであって、その交流が最小限であることを悲しむべきではない。それに、現状自分の人生で手いっぱいなのであって、例えば彼らのうちの誰か一人二人でも困難に直面しているとして、そこに手を差し伸ばすだけの余裕が自分にあるかと聞かれれば、返事には少々以上の時間がかかることは十二分に予想される。
友情というものに終わりはないような気もするが、減価償却は確実に起こっている。適度に修繕してやらねば、資産だと思っていたものは社会生活という倉庫から跡形もなく消えてしまうのだ。新しい友達ができない今こそ、古い友達を頼ろうと思っても、その友達は綺麗さっぱり消えてしまっていたり、昔のようには時間を過ごせないということもあるだろう。メンテナンスすべきものはメンテナンスすべきなのだが、問題は往々にして無くなってしまってからその役割に気付かされるということだ。
親と子の関係については、自分は子としての経験しかない。そのため、私を取り巻く全ての人間関係は偶然性によって形成されたものだ。関係を形成するのは偶然だが、老舗企業をありがたがるように、年月を経て残ったものには必然性を見出そうとする。しかし生じた時から偶然なのだから、終わる時もまた偶然ではないか。その偶然の過程を極々小さいスケールで見ると、何らかの因果関係が見えて、必然だったかに思えるが故に、なんとか維持しようとしてみたり、逆に仕方がないと諦めるのかもしれない。
結局全ては偶然とするならば、そのような態度は全て誤りと言えないだろうか? 人の生これすなわち偶然、況や人間関係においてをやである。であればこそ、来るもの拒まず去るもの追わずの精神で、ただその時々を楽しめば良いではないか。
という理屈をこねくり回しつつ、自分はかつての友と疎遠になってしまい、彼らの人生という舞台に呼ばれず、自分の舞台にも呼べない寂しさを埋めるなどしている。