今週のお題「大人になってから克服したもの」
お正月にはお年玉がもらえる。夏には夏休みで遊び倒せる。クリスマスになればサンタさんがプレゼントを持ってきてくれる。子どものころは世の中というものは「そういうもの」だと思っているし、その折々の「理不尽」(友だちよりお年玉の額が少なかった、夏休みの宿題が終わっていない、サンタさんが違うプレゼントを持ってきた等々)は経験しながらも、それは個別具体的な話であって、それぞれのイベントと言うか、そういうイベントがやってくるという自分の世界自体が大きく変わることはないだろうと思っていた。進学や就職を経ても、それは新たな要素がたされるのであって、自分の今あるものが失われることはない、と漠然と信じていた。というか、自分にとって当たり前のものは当たり前過ぎて失われるということに気が付かなかった。
しかし、実際にはそんなことはない。お年玉は渡す側になるし、夏休みは学生とは比べ物にならないくらい短くなるし、サンタクロースは……隣のハイソなお姉さんを遠い街へとある日連れて行ったっきりである。自分の世界はもはや同じものを探すほうが難しいほど変わってしまったし、自分の思い通りにならないことも増えた。他人や社会はおろか、自分の身体まで、最近は自分の言う事を聞かないことのほうが多い。
こうした状況から、自分は「無邪気に期待すること」を克服したのではないかと思う。つまり、なにか良いことが起こると思うとき、最近は「そうはいっても、やはりどうなるのかわからないのだから」と斜に構える大人を心に飼うようになっているような気がする。これは単に楽観的だったのが悲観的になったとかそういうことではなく、世の中には降って湧いた幸運も理不尽もあるのだから、何が起こるかは自分の期待とは無関係であるということを経験から学び取ったということだろう。
何かを克服するということは、その対象を亡き者にするということだ。その点から考えると「それはきっと自分に起こるに違いない」と信じる純真な心は消え去ってしまった。その心があったときには、まだ期待をスカイツリーより高く積み上げて、これから良くなる一方の自分の人生を無双することもできた。しかし、期待値を高く設定して、願い叶わずその高さから飛び降りなければならないときの痛みはもう経験したくない。一切は諸行無常であると言い切るほどに心は強くなっていないが(それは過去のメール問題についての記事を見ればこのブログの中だけでも一目瞭然であろう)、心の防御壁をこそ高くしていきたいと思う今日このごろである。
一つ付け加えるとするならば、遠くの方にある漠然とした希望だけは持っていてもいい、というか持っていないと人生大変辛くなる気がする。なればこそ、タイトル通り「夢も希望もあるんだけど、最近治安悪いよねぇ」などと言い合いながら日々を過ごしている。