夢も希望もあるのだが

タイトル通り、夢も希望もあるけど無味乾燥な日々を淡々と生きようとするブログです。

自分は天才ではないのだが(「肩をすくめるアトラス」感想)

 ずいぶん時間が空いてしまったように思う。実生活の方が若干バタバタしていたので、償いの意味をこめて長めの記事を書きたい。ということで、最近めでたく読破したアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」について感想を書きたい。ネタバレがどうのという内容でもないと思うが、一応ミステリ要素が入っているのでwikipediaを緩衝材として貼っておく。その下にはネタバレゴリゴリの感想文を書く。

 

ja.wikipedia.org

 

 まず、全体の内容としてはオブジェクティビズムなる思想が結実しているらしいが、確かに新自由主義者に支持されるよなという内容だった。作中ではフランシスコ・ダンコニアやジョン・ゴールトの演説のなかに「人の頑張りを搾取するたかり屋マジで許さん」的な思想が濃縮されていた。オルレン・ボイルやジェイムズ・タッガートのような「たかり屋」たちはカリカチュア的に描かれているのも丸わかりだし、展開や主張が反復するのが辛すぎて正直読み飛ばしてしまう部分も少なくなかった。メタ的な点でいえば、どの巻かは忘れたが橘玲氏が帯文を書いていて、そういう方向性だよな〜とも思った。

 

 実際、自分も中高生くらいの時に読んでいたら自己研鑽に向けてエンジンの馬力がより高まったかもしれないと思う。働いて、儲けて、その稼ぎを自分の(さらなる儲けの)ために使って何が悪いのか、という思想は若い人々には効果覿面である気がする。しかしながら自分はある程度歳を食って、どちらかといえばリベラル寄りの思想をするようになってしまったため、本書の主張に無批判で賛同することはできない。

 

 

 そのような立場で以下、より詳細な話をする。なお、アイン・ランド批評はおそらくそれなり以上の蓄積がこの世のどこかにあるものと思われるが、大学のレポートではないのでそれらを参照することはしない(なので、よくある批判の焼き直しで終わるかもしれない)。

 

 まず、作品が描かれたのが1957年であることに注目したい。公害が問題となって環境保護運動が盛んになるのが60年代だから、アメリカでも当時は戦後好景気産業振興イケイケドンドン感があったことだろう。また、wikipediaにも書かれているが、そもそもランド自身が反共主義運動であるマッカーシズムともかなり接近していたらしいので、資本主義全肯定感があるのはしょうがないような気もする。逆にいえば、現代の読者が「肩をすくめるアトラス」を読むと、環境問題や構造的不況など、その人なりに大なり小なり違和感のようなものは感じるのではないだろうか。そもそも物語の主軸となるのがタッガート鉄道やリアーデン製鉄、ダンコニア銅金属などゴリゴリの重厚長大産業なので、「めっちゃ生産したらめっちゃ世の中豊かになるのにできないんですよねぇ!」みたいなメッセージは、第三次産業が主流で情報通信技術が発達した社会に生きる我々にとっては、「そんな時代もありましたよね……(遠い目)」みたいな気持ちになるだけに終わる気もする。

 

 一方で、「(有能な)金持ちたちが自分たちのゲーテッドコミュニティを作る」という発想についてが新しいともされているが、作中に登場するゴールト峡谷は全く持続可能ではない。資源は自活しているらしいが、ほとんどが企業経営者上がりの壮年男性(謎に妻はしれっといるらしい)が、子どもについては一切描写されていない。ゴールト峡谷の価値観からして、ある程度養育して無能であれば追放されそうな雰囲気すらあるが、人間の知能は平均に回帰していくので、合格基準に達する子どもは少なそうだ。さらに、現状描写されているゴールト峡谷の設備では、一部の工学研究を除いて研究は難しそうだ。彼らに言わせれば人文社会系の学問とかは無なのかもしれないが、そもそも自然科学の基礎研究を行う設備は充実していなさそうで、拡充には少なくとも人手が必要そうだが、しかし有能な人間のみを囲うというスタンスである以上難しそうである。また、実際に子どもが無能であるとわかったとして、その子を切り捨てられるほど情のない親になりきれる人間はそう多くない。なるほどハンク・リアーデンは肉親への情はなかったかもしれないが、自らとダグニーの間に生まれた子が無能だったらどうするのだろう? コミュニティは彼らの一代で終わってしまいそうだが、彼らはそれをよしとしないだろう(ダグニーにとってあるいはフランシスコにとって、祖先の興した会社は矜持の厳選だったのだから)。結局のところ、彼らのコミュニティを外から隔離することはできず、ゴールト峡谷は外界に開かれている必要がある。

 

 しかし、ここでシェリルという人物を考えてみたい。作中で「たかり屋」ではなく、背いっぱい努力して社交界で一端の夫人としての立場を築き、ダグニーと相互に認め合ったにも関わらず、彼女は自死を選ばされてしまう。彼女とダグニーの差は、ただ生まれが大企業経営者の一族か貧しい生まれかだけなのであって、ここにオブジェクティビズムに含まれる能力主義は生まれの差を乗り越えられないことが描かれている。したがって、貧乏人が社会のはしごを登れないのであれば、金持ちたちが設定する基準に到達できる人間は稀なのだから、ゴールト峡谷は新たに人を受け入れることは難しそうだ。よって、ゴールト峡谷での試みは事業家たちの泡沫の夢で終わるだろう。

 

 しかし作中の登場人物たちの振る舞いからこうしたことが予測されるのだから、ランド自身もその思想の限界に気付いていたのではなかろうか。確かに「たかり屋」たちは社会にとって全く意味がない、むしろ害をなすような輩に見える。しかし、作中では理想郷のように描かれるゴールト峡谷も、シェリルのような人々を救えない閉鎖的なコミュニティであれば、その未来は暗い。ではどうすればいいのだろう。

 

 自分はここで、重要なのはエディー・ウィラーズなのではないかと主張したい。この物語は彼が一人でいるところから始まり、彼がダグニーに想いを伝えたところで彼女と決別する。彼は清廉潔白で、世の中を真摯に憂いていながら、状況を打破することはできず、恋敵であるジョン・ゴールトに愚痴ることしかできない。しかし、彼こそが道徳的な一般の人々を代表する存在であり、ダグニーやハンクら天才たちと、そうでない人々の橋渡しができたかもしれないのだ。そして、エディーに当てはまることは、凡人である我々に当てはまる。我々は社会を動かしている天才たちへの敬意を忘れることなく、シェリルのように「たかり屋」たちに惑わされたり、エディーのように傍観するのではなく、むしろ積極的に天才たちを助ける必要がある。ランドは一部の天才たちに分離独立を勧めるのではなく、むしろエディーやシェリルのような普通の、しかし志ある人々に行動を促すべしというメッセージを送りたかったのではないか。深読みでしかないかもしれないが、これが自分のとりあえずの結論である。